ぺ―ターマークのベートーヴェン交響曲全集









音楽を創造するには熟成された時間をどうしても必要としている。それはちょうどスコッチと似ている。呼吸をして樽のエキスを吸収し、琥珀色の宇宙を奏でる。しかし、近年のスター指揮者達の演奏を聴いてみても琥珀色の宇宙を感じることはない。演奏するものの内的な成長と全く関係のない小手先だけのベートーヴェン。そういうものが果たしてベートーヴェンなのであろうか?

今の演奏家は音楽から疎外され演奏するマシーンであることを強要されてしまう宿命にある。そういった中で、ぺ―ターマークのベートーヴェン交響曲全集は本当にデジタル録音であることがつくづく惜しまれてしまう、希有な演奏だ!!パドヴァのオケについて技術的にどうこういう人がいるけれど、そういう人は機械的なテクニックばかりのオーケストラを聴いていれば良いだけの話だ。残念なことに最近ではヨーロッパのオケさえもそうなりつつある。時代だからしょうがないと人は言うかもしれない。しかしこの交響曲全集はこのような時流にたいする反論になっている気がしてくる。

第5のフィナーレにしても晩年のフルトヴェングラーを彷彿とさせる。どこまでも澄み切った喜びが何とも印象的だし、第7の出だし、管楽器の掛け合いからして素晴らしい!!弦がすっと入ってゆくところなんかもそうだ。こういった自然な呼吸は奏者が互いの音を聴きあってはじめて実現される。マークの指揮にはどこにも力んだところが無い。オーケストラもよっぽどマークの音楽の世界に心酔していたのだろう。どこにも力みが無く自然体でありながらそれゆえにその人の持っている品性のもっとも素晴らしい部分がにじみ出てしまう、書に例えるのであれば良寛の書にもっとも近い。絢爛さ、豪華さ、そういったものとはまったく無縁な演奏だ。こういう正攻法な演奏をやりづらい時代になってしまった。近頃では問題意識の有無に関係なく変わったことをやらないとベートーヴェンなんか聴けないと言わんばかりだ。一方、マークはそんな姑息なことが出来ない人だった。彼は今のスターシステムの中で演奏をやるにしては処世術に欠けすぎていた。というより拒んでいたのかもしれない。もしかれにもう少し処世術があったならばイタリアの片田舎のオケで指揮なんかしていなかっただろう。デビュー当時あれほど注目されていた指揮者だったから。

しかし、私は今のウィーンフィルやベルリンフィルよりもずっとこのマークが振ったイタリアの片田舎のオケの方が魅力的に聞こえる。音楽とはそもそも腕自慢、機械的なテクニック自慢じゃない。どうしてここまで澄み切ったすがすがしい優しい響きを出し得たのだろう?私はマークが処世術に欠けていて本当によかったと思う。近年の巨大化したクラシック産業を前にして多くの演奏家は演奏する喜びから疎外されている現状を考えると、彼のようにそういった現状に背を向け音楽と対話できたことを幸福といわずして何を幸福というのか?音楽に疎外されない営みを復活させること。そのためにはいったい我々に何が出来るのか考えなければならない時期に来ている。このままでは今まで熟成し培ってきたものが消滅してしまう危機にさらされている。それは確かに時代遅れなものなのかもしれないが無くすにはあまりに惜しい営みだ。

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