名曲名盤主義の終焉







 かつてレコードは高かった!!今では、100円ショップですら過去の遺産を買う事が出来る。レコードはこの100年の間にもっとも値下げした商品なのではないだろうか?かつてはSPは高嶺の花だった。そしてその高価さに似合った芸が刻み込まれていた。明日戦地で死んでゆくもの、不治の病でで死んでゆくもの、そういう者達への花束となり得た。あらえびすは、パッハマンの葬送行進曲についてこのように述べている。「それは啜り泣く美しさだ。諦め兼ねた美しさだ。柩を包む花束の揺れるのを,涙一杯溜めた眼で見つめながら涂とい賛美歌を聴いている美しさだ。あんな深い悲しみ,あんな悲歎に彩られた美しさというものがほかにあるだろうか。」

 パッハマンの葬送行進曲に限らず、かつて、レコードは墓場に添えられた花束だった。レコードとは、演奏されたその場で消えてしまうもの、記憶のなかでしか生きる事の出来ないものに対する挽歌であり墓場に添えられた一輪の花だったのだ。それゆえにレコードを聴くという行為は、音楽という名の死者に礼を尽す行為であった。かつてはヒュッシュの冬の旅を聴き、戦場に散ってゆく事ができ、肺病にやんだ青年がカペーのベートーヴェンの15番のモルトアダージョを聴きながら死んでゆく事ができたのだ。当時の聴き手は今の我々から比べて決して裕福であったとはいえなかったが、音楽を聴く事が人生の血肉になり得たのだ。
こういった状況の背景には、日本におけるクラシック音楽受容そのものが、教養としての権威から外れないための装置として機能してきたという事情があった点にあると思う。しかしながら名曲名盤主義は戦前からの教養主義とレコードの高価さと希少性とによって支えられていた。ゆえに、教養主義の無効化によって、名盤という制度そのものが使い古され硬直化する現象はどうしても避けられなかった。
かくして高度経済成長の終焉によって名盤の時代も終わった。最近見かける名曲名盤主義を批判する立場の本も少しづつ出る事になったということは、教養主義としての音楽というあり方が全く自明でなくなったという事を意味している。
 もはや機能していない制度にしがみつくことは出来ない。硬直化し機能していない制度は一度は壊さないといけない。新しい音楽の地平線を切り開く為には、まず歴史から学ぶ事だ。教養主義という権威をあてにする事なく、個々の作業としてクラシック音楽の演奏史を自らの生の物語として紡いでゆかなければならない時代が来ているのではないだろうか?わたしにはそう思えてくる。



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