ニューイヤーコンサートの欺瞞性









 小澤氏がニューイヤーを指揮したレコードがオリコンの中でも上位の位置をしめているそうだ。クラシックのレコードがオリコンに登場するほど売れているということに私は非常に驚きを持つ。何ゆえに2002年ニューイヤーのCDが日本においてオリコンの上位になるほど売れたのであろう?クラシック音楽とは普段無縁な人間がどうしてこのCDを購入したのか一度考察する必要があるかもしれない。小澤氏の演奏が素晴らしかったから?(私は特別素晴らしい演奏だという印象は無いのだが)そうかもしれない。でも必ずしもCDの売れ行きという現象が比例する形で演奏の素晴らしさにはつながらないケースだって考えられるでは無いかという疑問もある。

現代のウィーンにおいてシュトラウス作品のもつアウラは一切無い。そもそもそんなアウラは音楽が国際的になった時点で消滅しているのでは無いのか?かつて過去のハプスブルグの栄光を国民国家の礎にするもくろみの一つとしてニューイヤーはあった。しかし今ではシュトルツやボスコフスキー等が今では失われたシュトラウスの古びた観光絵はがきを提供したぐらいなのでは無いのか?そのもくろみはオーストリーにとって観光資源の獲得という点においてだけは成功した。現実にはとうの昔になくなっているはずの「古き良きウィーンの伝統」が、あたかもあるかのように何も知らない日本人のような田舎者をまんまとだますことにはニューイヤーは貢献している。そういった意味において伝統を持たないものがあたかも伝統があるかのようにふるまうニューイヤーの存在自体が欺瞞的である。こういった構造にたいしてヨーロッパの音楽に対して距離をとることが出来る立場である小澤がこの点において無自覚であったということに驚きを隠しきれない。今回のニューイヤーは滅びゆく伝統とどのように向き合ってゆくのかという点で完全に失敗していると思う。その点、ア―ノンクールやマゼールのほうが伝統の崩壊に関しては意識的であった分、まだましだった。少なくともそういった問題に対して小澤が鈍感であったと思う。

 シュトラウス兄弟をはじめとする音楽における本質は失われた栄光への追憶であり滅びゆくビーダ―マイヤーへのオマージュという性質を持つ。このCDの聴き手は、これから起こるであろう日本の没落を世界の小澤という呪術的なアニミズムによって問題回避をしようというのであろうか?「まだ日本も負けてはいない、小澤のように世界に通用する人物を出しているではないか。だから我が国は安泰なのだ」と無意識で信じ込もうとしているのであろうか?かつてのシュトラウスの時代のウィーンがそうだったように…。しかしその後のウィーンが辿った歴史を見ても明らかなように、問題があたかも無かったかの如くふるまってもなんにも変わらないどころか事態は余計酷くなるばかりだということにいい加減気が付くべきなのでは無いのか。

 芸術が覚醒を促す装置であっても良いのでは無いだろうか?私はこの人気の背後にこの国の退行現象を見る。もういい加減無かったことにするのはやめてこの国の根っこにある大きすぎてまったく見えない問題を直視しようではないか。
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