ムラヴィンスキーの来日ライヴについて



 ムラヴィンスキーの実演を私は聴いたことがない。生まれるのが、あまりにも遅過ぎた。だからレコードやCDで聴くしかない。この事は一生後悔し続けるだろう・・・・・・。実際の演奏は、レコードやCDで聴くよりはるかに凄いということを、実際に聴く事が出来た幸運な人たちから聞く度に羨望と嫉妬を禁じ得ない。レコードやCDで聴いてさえあれだけ凄いというのに・・・・。

 あの体制下で、しかも飛行機が大嫌いな彼が、わざわざシベリア鉄道を使って何度も日本に来てくれた事、何よりも日本を愛してくれた事がとっても嬉しい!!!

 私はいまだにその恩に報いる事が出来ないでいる・・・・。彼がどれほど日本を愛していたのか、その証拠を我々は聴くことによって確認できる。この事は我々日本人にとってとてつもない幸運な事だった。我々は音楽におけるもっとも高貴な体験に幾度も遭遇する事が出来たのだから。

 胡桃割り人形にしても、こんなに深い哀しみを湛えた作品だったとは!!!ムラヴィンスキーは、他の多くの指揮者の選曲とは異った曲を用いている。いわゆる花のワルツなどが入っているop.71aではない。ムラヴィンスキーは、チャイコフスキーの秘密を暴露する。どうしようもない憂鬱と悲しみと怒り、それに諦めとを、静かに語りだすのだ。クララという女の子のメルヘンの話だったはずなのだが、何処か苦い。この苦さは人生の苦さなのだ。雪の冷たさが肌に伝わってくる。雪がワルツを踊る。いつしか音楽は痛々しい響きになっていく・・・・・。いや、メルヘンそのものが、人生の苦さをその成立の基盤としているのではないだろうか?

 パ・ド・ドゥは、この組曲のもっとも重要なところだ。私はこの部分を涙なしでは聴く事が出来ない・・・・・。クララは王子様と別れなければならない事を知っている、そのシーンがありありと目に浮かぶ。諦めとともにあのクライマックスで残酷にも運命の動機によって別離がどうしても避けられないものである事を宣告するのだ。何処にもセンチメンタルな甘ったるい所なんかない。あるのは切実な叫びだけである。それは同時にチャイコフスキーのこの生への別離すら暗示してはいないだろうか?他の演奏家ではそうは感じないのに、ムラヴィンスキーの演奏で聴くと、どうしてもそう思えてならないのだ。どこにも感傷的なそぶりも何も無い。そこにあるのは、霊的としか形容のしがたい世界への予感だ。

 音楽を聴くという事は単なる暇つぶしや気分転換などといったものではない。それは精神のもっとも深い所での叫びであり、祈りである。それは存在そのものと至高との掛け橋なのだ。

 今後、我々はこのような出会う事が出来るのであろうか?彼の死によって音楽のイデアへと至る扉は我々に閉ざされてしまったと思うのは私だけだろうか?

 少なくとも、残された彼の遺産を聴くとそう思わざるを得ない。
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