ポリーニに見る音楽の脱アウラ化



 ポリーニの演奏をに関しては、対立的な見解が相互に入り交じっている。彼の演奏において今でもさまざまな形で賛否両論に意見が分かれていることだけをとりあげても、いかにこのピアニストの存在が大きな衝撃であったのかを証明している。ところで音楽性が「音大生なみ」とする宇野氏の意見は見当違いである。なぜならば、ポリーニの音楽は音楽を物語から隔絶する地点に立脚しているからである。ポリーニの演奏の特質は、音楽の物語性を近代的なピアノ奏法によって極限にまで押し進めて破壊した点にある。

おそらくは、音楽における物語性など現代という一元化された空間では一切意味をなさないとポリーニは考えているのではないだろうか? ポリーニの音楽は徹底的に唯物論的でありマルクス主義的である。そしてモノとして対象化された素材としての音楽を聴き手に提示する。 つまりポリーニの演奏は物象化できないものに対して人は沈黙せざるを得ないという断念から出発しているである。そしてその断念は20世紀の音楽の出発点であったはずだ。

ポリーニの演奏は戦略上この断念を積極的に肯定する。それゆえに音楽の物語性を排除した上でひたすらに音の豪華な大理石の建造物を造る事を指向する。音楽の輝かしい姿とその音楽の輝きの代償として失ってしまった人間の不在を引き裂かれたままの姿で聴き手に突き付ける。ポリーニのピアノ演奏こそ、音楽を近代化しようとしたクラシック音楽が辿り着かざるを得なかった最終形態なのではないだろうか?

何を弾かせてもポリーニは同じようにしか弾かない。どのような曲も同じようにしか弾かない事に己の全てをかけている。同質に突き詰められた音楽そのものの彼岸にある硬質で痛々しい輝きそのものの感触にポリーニは苦痛を覚えながら耳を傾ける。若い頃の録音であるポリーニのショパンの練習曲は、音楽にまとわりつく物語を冷酷なまでに粉砕することでショパンの作品に潜む孤独や近付きがたさを浮かび上がらせた希有な演奏だった。

しかし、最近のポリーニは何かが変容しようとしている。大理石の建築を彷佛とさせる非人間的な完璧さから、何か差し迫った不完全な人間存在に対する眼差を獲得しているように見受けられる。

おそらく今後のポリーニはミスタッチなんか気にしないで音楽に没入するだろう。これをポリーニの技巧の衰えであるとする意見もあるが、今のポリーニの音楽は過渡期にある。それゆえにポリーニが今後どの様に変貌してゆくのか未知数である。1942年1月5日生まれだから59歳だ。晩年に大化けする可能性がある。今後の動向が非常に楽しみだ。
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